公募研究班(平成25年度)

西野 浩史

25年度の実施計画

H25年度は当初の計画通り、音波処理に寄与する経路を網羅的に精査する。振動や音はまず外骨格(クチクラ)、外骨格内部にある中空の気管、気管の上に組織化された支持細胞、支持細胞に樹状突起を伸ばす感覚細胞へと伝達されるため、これらの経路を損なわない観察が不可欠となる。当初計画ではニュージーランド固有の原始的なコオロギ(ウェタ)の聴覚器を調べることを予定していたが、ウェタの輸入が困難であることが想定されるため、まずは北大で常時飼育しているフタホシコオロギの鼓膜器官について調べる。具体的には以下1~3の項目について研究を進める。
1. 脛節まるごと三次元構築
全ての感覚細胞をローダミンビオチン(Invitrogen)の色素注入によって標識した後、単離した聴覚器を周囲の組織ごと固定後、ルシファーイエローを用いた対比染色を行う。さらに試料は脱水、サリチル酸メチルによる透徹を行う。共焦点レーザー顕微鏡(LSM5Pascal, Zeiss, 現有)で脛節まるごとのスキャンニングを行う。低倍観察のために×5倍の対物レンズ(設備備品費で購入)が必要である。ガルバノスキャナーの経年劣化により取得画像にぶれが生じるため、早急な交換が必要となる(設備備品費で購入)。光学切片スタックはTiff画像に変換し、専用ソフトAmira(現有)による三次元立体構築を行う。
2.振動受容器、音受容器を構成する全支持細胞の3次元構築
膝下器官と鼓膜器官の全支持細胞をホールマウントで高倍(×40)の油浸対物レンズ(現有)を用いてスキャンニングする。マスを構成する個々の支持細胞全てを3次元立体構築し、振動受容に寄与する支持細胞と音受容に寄与する支持細胞の構造的な違いを明らかにする。また、どの感覚細胞の樹状突起と支持細胞が対応するのかを明らかにする。

3.感覚細胞と支持細胞のサブセルラー領域精査
感覚細胞をローダミンビオチン、細胞核をDAPI、細胞中のアクチン繊維をファロイジンにより弁別染色する。
感覚細胞の刺激受容部位(樹状突起)の構造に着目し、油浸対物レンズを用いて樹状突起と支持細胞との付着点
を詳細に観察する。また、支持細胞の表面構造についても精査する。

25年度の実施報告

昆虫は外骨格という構造的な制約の中で我々の耳とはその材料や形状の大きく異なる「もうひとつの耳」を進化させてきた。これまで昆虫の鼓膜の挙動を模倣した補聴器の例はあるが、聴覚器本体に着目したミメティクスは国内外に例をみない。これは昆虫の聴覚器の詳細な構造や力学的特性についての知見が大きく欠落していることによる。コオロギの聴覚器(鼓膜器官)は音圧の周波数分波器としては世界最小クラス(200μm)であるが、広い可聴域、高感度を持つ。私はコオロギの鼓膜器官をモデルとして、そのサブセルラー領域を含む細胞構造、三次元的構造、および力学的性質を精査することで、ヒトの内耳モデルに比肩しうる“鼓膜器官モデル”を作成し、将来の聴覚ミメティクスやロボティクスにつながる基礎的知見を得ることを目的とする。
研究初年度は予定通り、共焦点レーザー顕微鏡を用いた伝音経路の精査に注力した。まず、聴覚器の周囲を覆うクチクラの上皮を半透明の真皮から分離する解剖手法を用ることで、非侵襲的に内部構造を観察することに成功した。大量に取得した光学切片をもとに聴覚器を含む脛節のまるごと三次元立体構築を行い、さらに聴覚器本体を構成する全細胞の三次元立体構築にも成功した。さらに、サブセルラー領域の観察により、70個の感覚細胞の刺激受容部位(樹状突起)がテント状の支持細胞の集合体(マス)を下から支える構造になっていること、樹状突起周囲が通常の体液ではなく、脂質に富む特殊なリンパ液によって満たされていることも発見した。
以上、研究は当初の計画通りに進んでおり、次年度の力学的計測、モデル化に向けた具体的な指針をたてることができた。当初予定していた振動受容器(膝下器官)の精査がやや滞っていることを考慮し、達成率は90%と総括したい。

26年度の実施計画

昨年度の研究は順調に推移した。コオロギの鼓膜から聴覚器本体に至るまでの音伝達経路の低侵襲的な観察により、サブセルラー構造の精査、三次元立体構築までを予定通り完了している。
本年度はこれらの構造学的知見をベースとして、原子間力顕微鏡(AFM)により、生体から非侵襲的に単離した聴覚器の高分解能・高精度粘弾性計測に挑戦する。試料サンプルの聴覚器は全長約200μmであるが、市販のAFM 装置の走査範囲は100μm 程度しかない。そこで、本研究では、AFM 装置(現有、MFP-3D)と3軸粗微動モータ(現有、位置分解能1μm)とを組み合わせた超広範囲AFM システムを立ち上げる。LabVIEW(現有)ソフトウェアとFPGA ボード(設備備品費で購入)を用いて、AFM 装置とモーターステージを同期させ、数mmのシームレスな超広範囲走査を実現する。
実験にあたっては、AFM フォースモジュレーションモードを用いて、音伝達体(外骨格、気管、支持細胞)の局所複素弾性率マッピングを行う。カンチレバー(消耗品費で購入)の先端にガラスビーズ(既存:直径約5μm)を装着したコロイドプローブカンチレバーを用いることにより、AFM プローブと聴覚器表面との接触面積の正確な評価が可能になる。測定周波数範囲は、100Hz から10000Hz であり、ロックイン検波により線形領域の複素粘弾性を精密に計測する。
以上の実験は北大・情報科学研究科の岡嶋孝治教授との共同研究として行うが、セットアップの改良に時間を要すること、聴覚器本体の粘弾性計測については液浸中で行う必要があるため、総合的な難易度は極めて高く、1年で完了する保証がない。そこで、もう少し視野を広げ、イオンコンダクタンス顕微鏡(SICM)を用いた音伝達体の表面構造の精査、および、前年度の研究で発見された聴覚器特有のリンパ液の化学組成についての研究を同時並行で進めておきたい。これらの研究は異分野連携、すなわち班間連携にも直結するものであり、大きな成果を期待できる。
得られた成果については学会等で随時発表を行い、国際誌への原著論文としてとりまとめる。
〔連携研究者〕
北海道大学・情報科学研究科 岡嶋孝治 AFMを用いた音伝達体の粘弾性計測

26年度の実施報告

コオロギの前肢の脛節内部にある聴覚器(鼓膜器官)は世界最小クラス(200マイクロメートル四方)であるが、ヒトよりも広い可聴周波数域を有している。本研究では鼓膜器官のサブセルラー構造や物性を精査することにより、システムとしての基本設計を明らかにし、微少振動・聴覚センサーの開発へ向けた具体的知見を得ることを目的とする

本年度は昨年度の解剖学的研究をさらに推し進め、コオロギの鼓膜器官が音受容において、1. 鼓膜の機械的振動、2. 気管による振動増幅、3. 流体(聴覚リンパ液)移動による感覚細胞の機械的刺激、という3つの過程を経ることを明らかにした。このことは鼓膜器官の音受容過程が脊椎動物のそれと似ていることを意味する。振動増幅から流体移動への変換過程では半透明のクチクラ装置が介在しており、これをクチクラコア(cuticle core)と命名した。このクチクラコアはキチン質からなるが、成虫脱皮直後には存在しておらず、約1週間かけて徐々に自己組織化的に形成される。また、脛節の長軸方向に対し感覚細胞を斜めに配置することで省スペースを実現していることがわかった。また、京都大・農学部の森直樹氏、島津製作所との共同研究により、100個体以上のコオロギから基底膜の内部に存在する聴覚リンパ液をガラスキャピラリーを用いて採取し、そのイオン組成を発光分光分析装置(ICPE9000)を用いて調べた。また、北大・工学部の岡嶋孝治氏との共同研究により、聴覚器を構成する組織の粘弾性計測も進めた。

結果を総括すると、コオロギ聴覚器の基本設計については解明することができた一方、リンパ液のイオン組成、聴覚器のサブセルラー領域の粘弾性計測については技術的な難易度の高さに加え、個体差が大きいため、未だに確固とした特徴を得るまでには至っていない。よって達成率は60%と自己評価する。

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