西野 浩史
研究概要
昆虫は長い進化の過程で、我々の耳とは異なる材料、形状をもつ“もうひとつの耳(鼓膜器官)”を創り出してきた。これまで昆虫の鼓膜の挙動を模倣した補聴器の例はあるが、聴覚器本体に着目した生物模倣は国内外に例をみない。これは昆虫の聴覚器への伝音経路や音伝達体の構成要素の力学的特性についての知見が大きく欠落していることによる。コオロギの聴覚器はヒトの聴覚器と同様に音圧の周波数分波器として機能し、小型、広可聴域、高感度といった特徴を併せ持つ。本研究では神経解剖学と生物物理学的計測法を用いた学際的アプローチにより、コオロギの聴覚システム全体の構造、細胞のサブセルラー構造、および力学的性質を精査する。
これにより、ヒトの蝸牛モデルに比肩しうる”鼓膜器官モデル”を作成し、将来の医療工学やロボティクスにつながる
基礎的知見を得ることを目的とする。
26年度の実施計画
昨年度の研究は順調に推移した。コオロギの鼓膜から聴覚器本体に至るまでの音伝達経路の低侵襲的な観察により、サブセルラー構造の精査、三次元立体構築までを予定通り完了している。
本年度はこれらの構造学的知見をベースとして、原子間力顕微鏡(AFM)により、生体から非侵襲的に単離した聴覚器の高分解能・高精度粘弾性計測に挑戦する。試料サンプルの聴覚器は全長約200μmであるが、市販のAFM 装置の走査範囲は100μm 程度しかない。そこで、本研究では、AFM 装置(現有、MFP-3D)と3軸粗微動モータ(現有、位置分解能1μm)とを組み合わせた超広範囲AFM システムを立ち上げる。LabVIEW(現有)ソフトウェアとFPGA ボード(設備備品費で購入)を用いて、AFM 装置とモーターステージを同期させ、数mmのシームレスな超広範囲走査を実現する。
実験にあたっては、AFM フォースモジュレーションモードを用いて、音伝達体(外骨格、気管、支持細胞)の局所複素弾性率マッピングを行う。カンチレバー(消耗品費で購入)の先端にガラスビーズ(既存:直径約5μm)を装着したコロイドプローブカンチレバーを用いることにより、AFM プローブと聴覚器表面との接触面積の正確な評価が可能になる。測定周波数範囲は、100Hz から10000Hz であり、ロックイン検波により線形領域の複素粘弾性を精密に計測する。
以上の実験は北大・情報科学研究科の岡嶋孝治教授との共同研究として行うが、セットアップの改良に時間を要すること、聴覚器本体の粘弾性計測については液浸中で行う必要があるため、総合的な難易度は極めて高く、1年で完了する保証がない。そこで、もう少し視野を広げ、イオンコンダクタンス顕微鏡(SICM)を用いた音伝達体の表面構造の精査、および、前年度の研究で発見された聴覚器特有のリンパ液の化学組成についての研究を同時並行で進めておきたい。これらの研究は異分野連携、すなわち班間連携にも直結するものであり、大きな成果を期待できる。
得られた成果については学会等で随時発表を行い、国際誌への原著論文としてとりまとめる。
〔連携研究者〕
北海道大学・情報科学研究科 岡嶋孝治 AFMを用いた音伝達体の粘弾性計測